モクジ
宮迫博之だけの話にかかわらず芸人はほとんどが苦労をしている。
まぁなんでこんな話から始めたかというと
苦労話というかイイ話でもしようかなーと思ったから。
という安易な理由でスタートを切ってみたいと思う。
この場でアンチ宮迫的な人からすると
なんでぇ宮迫の事たててんじゃねぇ。面白くねぇなぁ!!!
なんて思われるかもしれないが、ここはこんな話もあるんだなくらいで聞いていただけると幸いである。
雨上がり決死隊の宮迫と蛍原と言えば誰がどうみたって芸人の成功者だ。
特に宮迫にいっては芸人だけではなく俳優業としても幅を広げ、司会者としてもかなりかくりつしている。
ただやはり芸人誰しも苦労しているというのはまさに話しの根本はこの芸人という部分にあり、
1989年。
これが宮迫博之と蛍原徹でお笑いコンビ「雨上がり決死隊」を結成した年だ。
正確にいつから活躍したかという歳はないが、だいたい2000年を過ぎたくらいからテレビで活躍するようになっているだろう。
1996年に奥さんと結婚しているが、その頃にはまだ結婚出来る状態じゃないと宮迫自身が語っているため、
1996年時点では実際まだ稼いでいなかったことになる。
2001年に第一子を生んでいる事からするとやはり2000年くらいから目立ちだして稼げるようになってきたのではないだろうか。
2000年からとしても1989年から考えて11年。
デビュー後3年で新人賞を獲得していてそこから人気が一気に出てきたと言っているが、
実際成功したと言われるほどの成功でもなかったはずだ。
まだまだ根付いてない時はテレビに出ようが舞台に出ようが不安しかなかったに違いない。
11年間安月給なんていうレベルじゃない生活をしてきたわけだ。
バイトをしなきゃ生きていけない。この11年という間にどれだけの芸人たちや仲間たちが諦めていったんだろう。
実際自分がこっから11年下積みすると思うとゾッとする。
食いたいものも食えず。遊びたいことも出来ず。
すべてを芸につくして。すべてを金を稼ぐだけに注いで。
それをひたすら繰り返して11年。
これを苦労と言わずに何かね。
さっさとまじめに働けという人もいるだろう。いい年して夢みてんなんてダセェと言われるかもしれない。
たまたまだよ運が良かっただけと思う人だっているさ。
そんな意見も別に間違ってるとは思わない。
でもこうして成功している宮迫博之。そして他の芸人たちを含めて俺は凄いと思うのだ。
漫画はじめの一歩に出てくる鴨川会長が、
「努力したからといって報われるとは限らん。じゃが成功したものは皆努力しておる」
と言っていたのを思い出した。
そうなんだよ。たまたまだろうが運だろうが、何があろうが今こうして成功しているのは
努力したからなんだ。
宮迫博之の母親勝子さんが素敵すぎる!こんな強い母に育てられたなら11年耐えられたのも少しだけ納得。
宮迫博之の母親の名前は勝子さんという。
宮迫博之ももう40歳を超えて、その母となる勝子さんの話になるともう幼少期を振り返れば
国と国がいざこざを起こしていた時代まで遡ることになる。
お金がなんの効力もなく、食べ物もなく、貧しい暮らしが当たり前の頃。
勝子さんは小学生のころ勝子さんの母親ミヨ子さんと暮らしていたらしい。
ようは宮迫博之のおばあちゃんだ。
二人はそのころ小さな駄菓子屋をしていたらしい。
駄菓子屋か。時代と趣を感じる。
だがとある事情でミヨ子さんはとある人を追いかけて勝子さんを置いてどこかへ行ってしまう。
これは勝子さんが小学校5年生の頃だ。
普通では考えられないことだが時代やら理由やら色々あったのだろう。
?
まだまだ小学校5年では一人で生きていけるわけもなく勝子さんは親戚に引き取られて中学までを過ごすが、
そこからすぐに働き始める。それは当時の滋賀県の紡績(ぼうせき)工場だ。
紡績工場ってのは簡単に言うとワタを機械で糸にする工場の事。
明治や大正の時代では女性は中学に入ると同時にこうした紡績工場に入って仕送りをしたりお金を稼ぐ事が多かったのだが、
今の時代の当たり前とは全く違った強制的なものやひどい扱いのものだったようだ。
それぞれが何かを抱えて12歳とか13歳から働いていたのだろう。
しかしまぁ当時の工場だ。設備もしっかりしているわけでもなければ、空気も環境も悪い。
勝子さんはこの紡績工場で働いてすぐ目の感染症を診断されて辞めさせられてしまうのだ。
その目の感染症のこともあって勝子さんは母のミヨ子さんに迎えに来てもらい、
勝子さんはミヨ子さんと再び暮らし始める。
そして目の感染症が治ってから電話交換手の仕事を目指した。
何だ電話交換手って???お客様お電話サポートセンター的なやつか????
なんて思うかもしれないが、当時は電話を出るには専用の電話交換手という人が必要で
その人がいろんな人に電話を繋いでくれていたのだ。
今みたいにみんながみんな電話を持っているわけじゃないからね。
目指すほどのものかと思うが、今でいうと一流企業に就職すると同じレベルだ。
いや。・・・それ以上かもしれない。
勝子さんはその電話交換手の試験に合格すると、
大阪市中央卸売市場の卸売会社に電話交換手として雇われた。
そして仕事をしていくなかで出会った男性、宮迫信博と交際を始める事となる。
そう。宮迫博之の父だ。
その後宮迫博之は生まれる。
ここまでが宮迫の母勝子さんのストーリーであるが、
こんな壮絶な人生を歩んでいる勝子さんにとってすれば今の時代はどう写っているのだろう。
高校の時宮迫博之がお笑い芸人を目指すと言い出した時に引き止める事もなく
素直に応援したという話があるが、芸人という世界がどう見えていたのだろう。
俺なら普通に考えて甘えてんじゃない。ちゃんと働け。
そんな言葉をつい言ってしまいそうだが、
壮絶な人生を過ごしていたからこそ厳しい世界も知っていたし笑いの世界も知っていた。
何より自分が苦労していたからこそ息子に幸せになってほしいと思っていたに違いない。
こんな素晴らしい母親・・・
素晴らしい時代とは言えないが、昭和や大正の時代の女性は強く凛々しくたくましく、そしてとても女性らしくて美しかったんだと感じる。
宮迫博之の嫁の怖い話と良い話。画像付き
まぁ番外編みたいなものだ笑
怖いっていうかただの笑い話のつもりでふんわり読んでほしい。
宮迫博之の嫁はめちゃめちゃ怖いとして有名だ。
宮迫の話に家に帰ると玄関に仁王立ちで嫁が立っていた。
何か怒っている・・・なんだろう・・・。
するとこういった
あんたあたしのヤクルト飲んだやろ!!!!!!!
うそーん・・・
ヤクルトで怒るぅ??ぇぇ・・・うそん・・・
そんなん怖すぎる。
そもそも結婚していた理由は、宮迫博之が芸人として東京にきたものの仕事がない時、
嫁さんは電話で
「もう二度と会わないか、結婚するか選べ」
といったらしい。
なにぃーーー!!!!そんな言い方あるかぁ!!!!!
しかも「うん」ってその場は宮迫も言ったものの、少し考えさせてほしいとも言っていたらしい。
しかし次会うときには式場もなにもかも準備されていたとか・・・
なんつー嫁だ。
しかし逆に考えると芸人として仕事もない。終わった・・・なんてときに
結婚するか二度とあわないか決めろというのは逆に言うと
あたしに支えてもらうか、迷惑かけられないから女を捨てて芸人として勝負するか選べ
こう捉える事も出来るのではないだろうか???
実際宮迫ががんになった時も献身的に支え、食事も喉を通らなかったとも聞くし、
あえなくて寂しいと電話もしているとのことでお互いかなり溺愛している事は伝わる。
言い回しが怖いだけでめちゃくちゃいい嫁だと俺は思う。
怖そうに見えるだけで良い話。
というか今回おもしろ記事とかでもなんでもなくわりと真面目に語ってしまった。
ちょっとたまには真面目な話でもしたくなったのだ。
いやぁ・・・時代を感じるなぁ。
今回はそんなお話でした。
芸人というと男性芸人を思い描くが、最近やっと妊娠した森三中の大島もまた苦労人であろう。
芸人という世界でリアクション芸人なために妊娠出来なかったのだから。
こちらで妊娠前の大島美幸の苦労を御覧ください。
そして俺が大尊敬するかっこいい男出川哲朗。
みんな馬鹿にするかもしれないが、俺は本物の男だと思っている。
出川哲朗の言葉に森三中の大島が感動!!!!!尊敬する優しい一流芸人!
コチラも合わせてどうぞ。